伝わる、たしかに。

自分と立場の違う人について、何が違うと思うのかよくよく考えて、批判してみるのは当然だろう。わたしもそうやって批判したし、また手厳しく批判されてきたおかげで、今どうにかこうにかものを考えていられる。批判されたら悔しいけれど、それはやっぱり有難い悔しさなのだ。とにかく批判しあうに際しては、可能な限り相手の世界の相貌に想像力を働かせること。しんどいがこれに尽きる。
野矢茂樹『心と他者』(中公文庫版)を「第三章 眺望論」まで読んだ。彼の『哲学・航海日誌』でもなかなか理解できないのが眺望論だ。「ここに登ってこい。海が見えるぞ」とAがBに言う。BもAのところに行けば、同じように海が見える。痛みも、身体をともなう世界の眺望だ。Aの痛みは、Bも同じ身体状況になれば、同じ痛みとして知覚できる。そこには他者には伝達不可能な「わたしの内界」など無い・・・・というような議論なのだが、文庫版で彼の師匠大森荘蔵が、野矢の言う「同じ」の意味が分からない、という主旨の反論をしているように、わたしにもなかなか想像できない。Aのところにわたしも行く。Aは裸眼でよく見え、わたしは眼鏡をかけていて色弱気味・・・・のような場合とか。ましてや痛み。
ただ、野矢が言っていることでウィトゲンシュタインから受け継いでいるであろうこととして納得できるのは、彼が「内界」の常識を疑問に付そうとしているということだ。わたしの内面は彼の内面と遮断されていて、彼の内面で起こる出来事の一切はわたしには不可知という、いかにも想像しやすい袋小路を、疑問に付す。当たり前と思っていることを疑うのだから、議論は込み入って難しい。
ただ、野矢のこうした考察から「心」を浮き彫りにしてゆく作業、そして彼による、おそらくは自己と他者とのいろいろな事柄の共有可能性という楽観的見通しは、教会という共同体を知ろうとするわたしにとって大いに参考となる。他者性は重大とはいえ、他者の不可知の強調だけでは、共同体は成り立たないだろうから。
ちなみに2年ほどまえ、野矢の眺望論を、お世話になった母校の宗教哲学の教授に相談したら、猛烈な勢いで反論されたのだが、反論の内容があまりに高度で、何を言っているのか、一言たりとも理解できなかったのであった・・・・・