わたしにかたりかけてくるもの

録画しておいた日曜美術館円空を見ている。柳宗悦が紹介していた木喰上人を連想。よいなあ。木のかたちに、いのりがいのちそのものとして宿っているような。
円空の仏像で、磨り減りまるっこくなったものが。お寺から子どもたちが持ち出し、川に浮かべて遊んだと。輪郭がゆるんだ仏の顔に、冥利に尽きることの極意を観て涙。
自分のなかで、キリストへの帰依と、仏さんへの感性とは、どんな関係になっているんだろう。自分は極めて排他的保守的なキリスト教徒だという感覚はあるのだが。
坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(中)』(岩波文庫)の、「化城喩品」まで読み終える。まだまだ先は長いな。道を求めて迷い苦しむ人々が「もうあかん」と引き返さないようにと、仏は安息する城を用意してくれた。しかしそこはゴールではない。もっと(もうすぐ)先に、真のさとりがあると。
法華経に出てくるたとえ話は面白い。そして、人間的なスケールで話をしていたかと思うと、急に億とか劫とかいうような気の遠くなるような単位もさらっと出てきて、その大小のダイナミックさが躍動的だ。
“無明は行に縁たり。行は識に縁たり。識は名色に縁たり。名色は六入に縁たり。六入は触に縁たり。触は受に縁たり。受は愛に縁たり。愛は取に縁たり。取は有に縁たり。有は生に縁たり。生は老・死・憂・悲・苦・悩に縁たり。”。哲学的に受け取ってはいけないのだろうけれど、静的ではなく動的な存在論