罪意識

http://kyodan.holy.jp/hc_o03.pdf
たまたま知った。賛美歌の翻訳ひとつにも、神学が表れることを丁寧に考察している。わたしは福音派出身のせいか、このような罪理解に親和性を感じる。いっぽうではとことんロマン主義者のくせに(苦笑)
福音派であったから、自分はとことんクズであると感じるほどの罪意識を持ったのか。それとも、自分はとことんクズであるというような嫌悪感や罪悪感があったから、福音派に親和性を持ったのか。でも子どもの頃から通った教会だからな。ちなみに「塵芥」という言葉はどうも上品なので「クズ」と表現。
なんか、具体的な、あんな悪いことしたこんな失敗したというのもあるし、けれどもそれだけじゃなくて、そういった具体例という図を表す地そのもの、つまり存在論的に自分が神と言う的から外れているような「ずれ」の感覚もあり。そういうところで、自分の信仰の中心は自分が神に認められることというよりは、自分の罪が贖われることだと。
だからThe Velvet Undergroundの「Jesus」という曲は好きなんだな。proper placeについて問うているところが。

ただし「罪(ハマルティア)≒的外れ、の意」という知識が与えられて、後付けで「ああ、それそれ、その感覚だ自分は」と自己理解したとも言える。
ただ、こういう罪意識はクリスチャンでない人から、あるいはクリスチャンからでさえ、「なんでそこまでネガティヴなのか」とか「自己否定や自己嫌悪はけっきょく強い自己愛の表れに過ぎないのでは」と反問されるだろうし、実際されてきた。しかしこのような意識へのアンテナはわたし自身の感覚的な来歴もあり、それらすべてを明晰な言葉で説明はできない。こういう感覚、ない人にはないのかもしれない、なくて済むのかも、としか。病的な罪意識だと言われても、そうですね、としか。
自分の過失によって連れ合いが倒れたときや、郵便局で耐えられず責任を放棄したときなど、カトリックのような告解のサクラメントがあったらなあと思った。個人的思いつきのリタージカルな配慮ではなく、歴史的に伝承されたものに身を委ねたかった。
それだけに、聖公会司祭の友人から、伝統に則ってキリストによる罪の贖いの宣言を受けたときは、安心して涙が出たものである。