人間学その1

イミンク『信仰論』の「第10章 人間中心のパースペクティヴ」まで読んだ。あと少しだ。ティリッヒが丁寧に、しかしおなじみの仕方で批判されている。要するに「神学の人間学化」であると。わかったわかった仰るとおりですねと、頁を繰ってゆく。そもそもティリッヒとイミンクとでは前提が違いすぎる。
ティリッヒ久松真一禅師と対話したという。そのときのテクストは未見のため、どのような対話が行われたかは分からない。ただ、もしもティリッヒが「どんな宗教でも同じ」とか「宗教は人間がそう信じているだけの観念」というような考えだったら、到底禅僧との対話になど臨めなかったはずだ。ティリッヒにも、揺るがぬ、客観的な、排他的とさえ言っていいキリスト教信仰があったからこそ、このような冒険もできたのだと思う。イミンクはティリッヒらの語彙としての「象徴」の深さを過小評価しているのではないか。
たぶんイミンクが象徴(にすぎない)と思っているところで、ティリッヒは、イミンクが大切にする人格や主体の交わりというものを、いきいきと感じていたのではないかと思う。そしてティリッヒの後継者もまた。そのくらいの引力というか魅力がなければ、ティリッヒを研究する人が次々と現れる、それも日本人に、ということの説明がつかないように思われる。
こういう思考を続ける限り、わたしの在り方もまた、組織神学的ではなく人間学的(にすぎない)と片付けられるのだろうか。