人間学その2

「いのフェス」いのり☆フェスティバル 教会・団体・企業・学校・サークル・個人のためのフリーマーケット
フェイスブックで「いのフェス」をシェアしたところ、信頼する同僚の牧師から「(アニメ的なものに、あるいは若者という世間に)媚びているのではないか。違和感を感じる」旨のコメントが返ってきた。もちろん、そういう人がいて当然だと思う。わたしにとって彼のコメントには重みがある。
牧師や信徒にもいろいろな考え方、受け止め方の人がいるのはあたりまえだろう。教会は社会に対してあらゆる手を尽くして挑戦すべきだという見解。いや、そういう悪あがきは人間的な思いに過ぎない、ひたすら礼拝に専念し、あとは主に委ねるべきだという見解。そのほかにも様々な受け止め、理解・・・・。
ふと、さきほどの日記の「神学の人間学化」という批判を思い出す。わたしは人間的に思い煩いまくるタイプである。静かに虎視眈々と、ひたすら神さまにすべてを委ねて待つというようなことが、なかなかできない。あれやこれや思いついては悪あがきしてしまう。
教会は教会でしっかりやれ、よけいなことはするな。世間/人間的なものと教会とはまったく別である。このような教会観は、教会の輪郭を保ち教義を大切にする上で、とても重要なことだ。しかしまた一方で、こうした理解からすればいかにも「ちゃらちゃら」した、いろいろなことにフットワーク軽く挑戦する動きが、教会の停滞しがちな空気をかきまぜ新鮮にするのだとも思うのである。
しかしわたしは、そこで「要はバランスが大事だよね」とは思わない。バランスなど簡単にはとれない。つねに失敗や偏向や挫折の危険と闘いながら、「神さま、どうしたらいいっていうんですか」と祈りながら、緊張しつつ綱渡りしてゆくのだ。そこには熱くも冷たくもない生ぬるい中間はない。
「いのフェス」に反対する人、違和感を感じる人は、信仰に賭けている。「いのフェス」を主催する人、支持する人もまた、信仰に賭けているのだ。だからおもしろい。