権威という言葉から手垢を取り除きたい

出かけた先で、内田樹の『「おじさん」的思考』と小林秀雄の『考えるヒント』を買った。それで今、内田の『街場の文体論』と『「おじさん」』を同時進行で読んでいるところ。内田の、もうそれ以上は問えないものとしての権威をどこかで認める姿勢、というか文体に、共感するところがある。その前提の上で可能な限り謙るところに。
ウィトゲンシュタインの『確実性の問題』も単純に倫理問題とは同一視できないのだろうけれども、疑うという行為に対するエチケットの問題提起とも読める。今日たまたま立ち読みした外山滋比古も、教師の権威について、そういうことを言っていた。こういう話はただの懐古趣味だろうか。わたしは違うと思う。
教えたり物語ったりする際に、教え手や語り手に権威(信頼すべき専門性、といった要素だろうか。でもそれだけではない。)を僅かでも認めないならば、そもそも教えを乞う、というか、相手から教わるということが成立しないというような。
それとも、そもそも教えを「乞う」という発想自体が時代遅れの復古主義なのだろうか。しかしそれでも、わたしは誰かにものを教わるというとき、そのように相手をいわば「盲信」して教わったし、今現在もそうしていると思う。
内田がうまいこと言っている。批判の内容よりも批判の態度の問題。「学校はもっと○○すべき」と親が教師を「ボロクソにけなす」態度を子は見て、ああ学校なんてクソみたいなところなんだねと学ぶという。
外山の、あくまで立ち読みでうろおぼえなんだけれど、たしか中曽根康弘の懐古の引用で、中曽根は尊敬する教師がトイレに行かないと信じていた、トイレに行くと知ったときにショックを受けたというエピソードの紹介があった、もちろん極端な例だけれど。内田の、知を渇き求める教師の欲望に生徒が欲望するという構図説明に通じる。内田の言う、教え子による「教師が知を渇き求める欲望」への欲望(立ち現われとしては教師への欲望)≒外山の言う、教師への崇敬
そもそも内田樹にしてからが、ほとんどブログから出版に至ったものだという。それなら本なんか買わず、ブログで読めばよい。内田に権威を認め、その教えを乞いたいがゆえに、わたしは内田の本を買うのだと思う。