ツイートと、出会いと、コミュニケーションと

ツイッターのタイムラインで洗礼の意義に関する議論を読んで)
洗礼こそ最大の難関なり、か・・・こればっかりは対面のコミュニケーションも込みでないと、ツイートじゃどう語っても詭弁や自己擁護としか受け取ってはもらえないだろうなあ・・・
洗礼の理解について、いちばん素朴でしっくり納得できたのは、赤木善光の洗礼論だ。彼は聖書から苦労してやり繰りして洗礼を弁証しようとはせず(もちろんそれもやるにはやるが)、きっぱり「それがキリスト教の伝統なんですよ」と言い切る。わたしも最後はそれに尽きると、少なくとも今は思っている。 だから、伝統を前にしたときに、人によっていくつかの態度決定もあるのだろう。伝統を覆そう。伝統を改革しよう。伝統を守ろうetc.
地方の教会で難しかったケースとして、「長男の嫁ですので洗礼を受けられません」という、しかし熱心に信仰を求めておられる方。おそらく日本の諸教会で、そういう方は多くおられるのではないか。
以前に加持伸行『沈黙の宗教 儒教』を読んでつくづく感じたのは、日本人ことに地域社会の日本人にとっての「たましいのつながり」の大切さ。キリスト教信仰を決断するというとき、このつながりを断ち切るのかで自分を追い詰め悩みぬき、教会を挫折する方もおられる。
そんなに思い詰めないでください、断ち切る必要なんてないじゃないですかと、わたしも思う。でもたいてい、そう説明してもなかなか伝わらない。相手の方の身体が「断ち切れてしまう!」と、危険を感じて硬直する。まさに宗教の身体性の問題なのだ。
前任地で、曹洞宗の若い後継ぎさんと、けっこう親しく話した。ちょうど『正法眼蔵』を読み始めていた折でもあったので。そのお寺は何百年もその地にあり、今も落語やコンサートを開いたりして、地元の人々から厚く信頼を寄せられている。この「誰でも入れる」感には圧倒的なふところの深さがあった。 一方で教会は、幼稚園の保育の安全確保もあって、平日は扉を閉ざす。ただでさえ階段を上った高い所に入口があるのに、さらに戸も閉まっているとあっては、気軽に立ち寄れるような雰囲気はないだろう。
聖書学や、それに何より実際の人との出遭いによって突きつけられる問いと、伝統とを紡ぎあわせることは、ほんとうに難しい。起源の問題と、形成・歴史の伝統の問題と。そして今、ここ、さらにこれから。ぜんぶ有機的に結びついている。 先に天へと召されていった人々の祈りを受け継ぎつつ(伝統)、イエス・キリストと共に今ここにいる人々と祈る(ときには改革)ことで、教会を未来へと繋いでゆくこと。これもまた、牧師の職務の一つだと思っている。もちろん、教会員や地域の人々とともに。