この小さな出来事のなかでこそ

録画しておいた『日本人は何を考えてきたのか』第11回の西田幾多郎を観る。重たい。結果ありきではない思考の、なんと難しいことか。追認ではなく批判することは、三木清であれボンヘッファーであれ、命をかけるしかないというのか。これほどに究極の選択を迫られるのか。番組を観ながら、自分の安全を確保しつつ(人さまには)正しい言説を行うにはどうやったらいいか、何とか言い逃れはできないかと、なかば反射的に頭をフル回転させている自分がいた。

以下、内田樹より引用。“「イサクを燔祭に捧げよ」という主の言葉は何を意味しているのか。字義通り「イサクを殺して焼け」ということなのか。それとも何らかの隠喩なのか。父に子殺しの罪を犯させることによって主は何を得るのか。この難問にそもそも「正解」はあるのか。このような厄介事に巻き込むことで神はアブラハムの何を査定しようとしているのか。どの問いにも答えはない。それは「他者」と私を同時に包摂し、それぞれの行為の意味や適否を教えてくれるはずの客観的な判断枠組み=全体性がここには欠落しているからである。欠落しているどころか、「行為の意味や適否を教えてくれるはずの決疑論的な判断枠組みが存在しない」ことを知らせるためにこそ主は語っているからである。”(『レヴィナスと愛の現象学』)
昼間、西田幾多郎ら京都学派は戦中に「正しい判断」が可能であったか否かについて思いを巡らせていた。だが「正しさ」の基準たる全体性は、当たり前だがリアルタイムの彼らには隠されていたのだ。
イサクを捧げよという命令の意味について、「分からん」と保留することは、リアルタイムのアブラハムにはできない。分かろうが分かるまいが、何らかの決断をその呼びかけに対して行うより他はない。
そしてキルケゴールはその先行不透明であることについて、問いを投げっ放す点においておそらく悲観的でさえあったろうが、レヴィナスは逆に、不透明であること、部分しか見えないことにこそ喜びを見出そうとしているように思われる。それがわたしのレヴィナスへの誤読であるにせよ、わたしはそう思いたい。
創世記22:1のアブラハムの返事「はい」は原義的にはヒンナニー(わたしを見て下さい)だ。用法としては日常会話的な返事なんだから、いちいち意味など意識してはいないだろう。けれど、これは非日常的応答でもある。このような究極の呼びかけへの返事なのなら、あるいは「わたしを」+「見てください」の構造は、アブラハム自身にとってふだんあり得ないほどに浮き彫りになっていたかもしれない。
先行き見えぬ場で、しかも決断するということは、けっきょくヒンナニー(わたしを見て下さい)と応えることなのだ。だったら、誰に見てもらうのか。今すぐ褒めてもらえそうな誰かに見てもらうのか。しかしその誰かだって全体性など知らない。全体性は、神しか知らない、神にしか見えないはずだ。
22:14ではヤーウェ・イルエ(主は見る)といい、ヤーウェ・イエラエ(主は見られる、主に?見られる)といわれる。神だけがアブラハムの行為の意味の全体性を知るのであり、また、部分しか知らないことにおいて、断片的体験において、アブラハムは神を見るのである。
きっとわたしたちはアブラハムのように、ごくごく断片的、部分的体験、総合化したり総括したりできないような、意味づけることが不可能なような出来事において、神さまと出遭っている。