和解は人間の目標、されど

ペリカンの『キリスト教の伝統 2』を読み続けている。正教が聖画像破壊主義者と論争し、ユダヤ教と論争し、二元論と論争し、イスラームと論争した経緯から、学んでいる。論争の際に正教側も相手側も、仲良くなろうとか、一緒になろう、まして譲歩しようなどとは思ってもみない。なんとかして相手を論駁しよう、改宗させようと、互いに容赦なく激論を浴びせあう。
だがその結果、論争している正教の神学者たち自身ほとんど意識しないままに、自らの信仰をさらに深め、その神学の深みを増している。これがもしも「他人は所詮他人だが、まあ、他宗教を参照することで自分も成長できるかも」という目的ありきの「きれいな対話」だったらどうだろう。これほどの豊穣を生んだであろうか。
ペリカンの本はキリスト教神学書なので、ユダヤ教イスラームがどんな影響を被ったのかは書かれていない。しかしおそらく、それぞれの宗教においても、同様の「気が付いてみれば」的な深化が起こっていたと思う。争いの絶えない歴史、時には血も流された不毛の論争。だがそれにもかかわらず、なおわたしへと伝わってくるものがある。
誰かと何かを対話するときに、「この対話をとおして‘自分は’成長するのだ」という目的すらないこと。ただひたすらに他者からの挑戦があり、抜き差しならぬ駆け引きがあり、つねに脅かされ、あるいは脅かし、自分が成長しているかどうかなど顧みる暇もなく・・・。これほどに不器用な営みが、これほどの豊穣を。
他者を侵犯する、あるいは他者に浸食される、反倫理ぎりぎりのせめぎあいのところで、相手に必死、おのれの成長や深化など眼中に入って来ない他者との遭遇のなかで、あくまで後から振り返ってみてのみ、このような深まりがあるという気付き。