自由の風にさらされ

聖公会の司祭の友人と、久しぶりにスカイプ。わたしが最近出会った正教の神父の話をしたら、「お会いしたいなあ」と喜んでくれた。転居までにもう一度ニコライ堂に寄ることがあったら『正教要理』を買って、贈ってあげようと思う。彼の大好きな教父たちからの引用が、欄外の注にふんだんにあるから。
彼から興味深い話を聞いた。あくまで特例だが、洗礼が間に会わなかった場合、死者すなわち遺体に洗礼を授けることもあるという。信仰告白は?と尋ねると、「だって幼児洗礼で、赤ちゃんは告白しますか?」と。すべては神の恩寵のなかにある、と。あくまで現場の特例的な判断としてではあるらしいが。
前任地の近隣教会で、牧師が同様な行為をしたことがあり、そのときは残念ながら教区で「大きな問題」となってしまった。死者に洗礼など言語道断、言葉を失うほどの大失態であると。牧師として許されざる行為であると。それだけが理由ではないとはいえ、その牧師は教区に居られなくなってしまった。
聖公会の友人はハイチャーチ、徹底的に伝統を重んじる司祭である。彼はエキュメニズムなど笑い飛ばす頑固者である。しかし彼の牧会のほうが、不思議な事に、「リベラル」な「はずの」このわたしなどより、はるかに柔軟で、信徒の現実に即した牧会をしているという、この皮肉。
クリメント司祭や聖公会の友人と対話していると、なぜか「リベラルな」はずの自分のほうが、はるかにいろいろな前理解や思い込みにがんじがらめの信仰を持っていることを強く思わされる。日本基督教団は自由である。でも、サルトルが「自由の刑」と言ったような意味で自由なのかもしれぬ。すべてを自由にすることが神の不在と表裏であること、すべてが自由(あらゆる前提や立ち位置を持たないこと)であることが、あらゆる意味で人間を苦しめることは、ドストエフスキーも繰り返し語っている。