当事者一人が癒されても孤独なだけ

オリヴァー・サックス『火星の人類学者』の、“「見えて」いても「見えない」”を読む。以前ある方から、目の手術をした結果見えるようになり、すると視覚が恐ろしくて、白杖を用いていた時よりもむしろどこにも行けなくなった実話を聞いていたが、より詳細で学術的な証言を得る思いだった。
わたしはその方から「盲目から見えるようになることでむしろ不自由になる」という出来事を聞いて以来、たとえばマルコ8:24前後などの、見えない→見える、の奇跡を、単純には読めなくなった。外科的な意味で見えるようになるだけでは、癒しにはなりにくいと。
そしてサックスのテクストによれば、癒しにはなりにくいどころか、むしろ盲目を治療され見えるようになる人の殆どが、生活だけでなくアイデンティティにも破壊的なダメージを受けるという。ごく一部の人だけが新たに得た視覚を使いこなせるようになり、そういう人のみが新しい生を創造的に生きることができるのだと。
サックスの報告事例でも、治療を受けた当事者はまるで『アルジャーノンに花束を』の主人公のような運命を辿っている。まったく新たな知覚を得た彼は、その知覚に振り回され、著しく消耗し、健康を失い、結局は完全な失明と重い後遺症のなかで、ようやく平安を得る。
だから新約聖書においてイエスが目の見えない人を「癒した」というとき、イエスが単に外科的に彼の視覚を回復させて後、彼を放り出したのであれば、彼は見えるものが何であるか、そもそも見るとはどのような行為であるか、一切理解できなかっただろう。そして彼は、見えなかった時以上の孤独と苦しみに絶望しただろう。「おまえ見えてるんだろ?もう見えるんだろ?だったらなんで出来ないんだよ」という、見えなかった時にはあり得なかった重圧が彼に課せられるのであれば・・・そのような場合における彼の「見え」は、我々の視覚や空間把握とは、文字通り我々の想像を絶するほど隔たった、苦痛の世界でしかないのだから。
そうであれば、聖書における目の癒しは、単なる新たな知覚の付加ではない。また、見えない人本人「のみ」の癒しでもない。周りの人間をも巻き込んだ、何かまったく未知の、それも絶望に至る外科手術とは正反対の出来事であったはずだ。あるいは、そういうメッセージが読み取れるはずなのだ。