変容と受容

オリヴァー・サックス著、吉田利子訳『火星の人類学者』(早川書房)読了。日常生活の困難さという意味ではレベルがまったく違うが、少なくとも、このわたし自身が抱えているいくつかの強迫的な観念や癖については、「直/治すべき」ものと考える必要はない(かもしれぬ)、ということだった。そういう「欠損」は、わたしの自我の一部であると。
わたしが何か誇りを持っていると自認していること、これは得意だと思っている(思い込んでいる、確信している)ことに、そうした強迫的なものは寄与している、それどころか表裏の関係にある。否、関係にあるどころか同じ部分の表裏ですらあると。
いきなり頭ごなしに「あなたはありのままでいいんだよ」と言われるとイラッとするが、こうやって具体的な「障害」の数々を、その限界と可能性とともに詳細に語られると、わたしにとっての「ありのまま」の持つ意味も変容し、受容可能なものと思われるようになってきた。
「ありのまま」という言葉にはほとんど反射的に拒絶反応が起こり、「自分には『ほんとうの』とか『ありのまま』(とか『マイペース』)が分からないからこそ探求し続けている」と反発するのだが、そういう「分からなさ」を「ありのまま」と認めてよいのだと、おぼろげに理解できたように思う。


「神に委ねること」と「ありのままであること」。意味していることは全然違う(ときに正反対でさえある)が、用いられる文脈が互いによく似ている場合が多いこと、そしてそれらの文脈において、つねにわたしの理解を超えていることにおいて、両者は共通している。これらがどんな心境や行為を指すのか。