そこにすべてが表される

横浜美術館
横浜でキャパとタローの写真展を観る。沢田教一らの写真も。沢田の写真集を買って見直したところ、なんか黒が薄い。写真であっても、展覧会場の「原画」と図録とでは違うんだなあ。
神学生時代、教会実習のとき父親譲りの重いAE-1を提げて行った。240枚ばかり撮影したと思うけど、大事な場面に限ってピンボケしたものだ。ピントを瞬時に合わせて撮る写真家の技術は凄まじい。彼らのカメラは瞳孔と一体化しているようだ(その後カメラに詳しい人から、絞りを絞ると被写界深度が深まるのでピンボケのリスクが減ることを教わる)。
写された顔、とくに眼光の見事さは勿論だが、被写体のくたびれた服のぶ厚い生地、その染みや汚れ、ボロ靴、瓦礫の砂粒や銃器の光沢など。不謹慎だとは思いつつも、戦場写真の美しさには目を見張るものがある。エドワード・シュタイケンの磁器のような肌理の写真とはまた全然違う。
粒子も荒々しい白黒写真の黒って、長谷川潔のメゾチントの黒と通じるな。
少女の白い顔に浮かぶ黒い目。そのシンプルな顔の構成から右下に視線を転ずれば、対照的に鞄の襞と硝子瓶の反射光の複雑さ。顔と物体との対角線的な配置の妙、これはキャパが意図したものなのか、瞬時の偶然なのか。
画像では分かりづらいが、写真は少女の顔ではなく鞄にピントが合っているようでもあり、襞が異様に浮き上がって見える。