補足

さきほど岡田斗司夫のディズニーランド説から、ファンであることと信仰することとの違いについて考えていたが、カトリックの方の意見から学ぶことがあった。教父たちによって整えられていったであろう教理や礼拝形態。そこでは必ず何らかのかたちでの永遠の命にあずかる祈り、すなわち死者との関わりがある。
自分に身近な人が亡くなった場合だけでなく、遡ること何十年、何百年という死者の信仰的生の営みと死と永遠の命について。それは一方ではファンの心理のような実存的(いかに生きるか)に属する部分もあるが、それを含めて、それを超えて、死をはっきり意識し、向き合い、死者を覚え祈る「かたち」を持つ。
岡田氏の言説と同じ土俵で言うなら、宗教とはそういう死にまつわる「かたち」をはっきり持っているということにおいて、ディズニーランドとはぜんぜん違った役割を持っているのだと思う。
わたしがリベラルな神学に共感しつつも限界も感じるのは、この「かたち」についての、わたし自身のこだわりがあるからなのだろうと思う。宗教は「いかに生きるか」を大切にするが、それだけではない。死と向き合うとき、先駆者たちが遺してきた「悼むかたち」を解体し去ることは、わたしにはできない。