隠し味

九州へ引っ越す前に挨拶しようと、東京に来てからとくに交流を増したS先生の教会へ。聖書研究祈祷会だったのだが、生憎先生は所用で不在。しかし信徒の方々はふだんどおり(前回訪問時とほぼ同人数)集まり、信徒の一人が聖書から発題し、終始和やかかつ知的な会だった。
先生がいようがいまいがふだん通りの集会を維持できること。これは教会の健全さの一つの指針であると思う。先生が不在だったことで、却って先生の牧会のゆたかさを垣間見ることができた。わたしの常々の課題である「牧師の人柄が良い人か嫌な人か、というような要素に依存しない牧会」の可能性を取材できた。