「刺し違える覚悟」と言った先生もいた。

エキュメニカルというのは、きっと一致を目指すのではなくて、あくまでお互いの差異を尊重しつつ、一致ではなくゆたかな交流ないし学び合いを模索することなのだろうなあと思ってみたり。一致という言葉は、人間の現実には美し過ぎて遠過ぎる。
レヴィナスの他者論を思う。レヴィナスが他者と言う時には、相手と自分と、両者を含みこむ共通の「全体性」というようなもの、そんなものは無いと言い切る。極論にさえ聞こえるが、相手は自分と何の前了解、共通理解の基盤も無いのだと。そういう相手と出会うことで、相手と自分という二人の主体が生じると。和辻哲郎が語る「間柄性」ののどかさは、そこには無い。とてもスリリングだと思う。エキュメニカルな「交流」というのも、つねにそれくらいの綱渡りなのではないか。