埋まらないが埋まる

W.パネンベルク著、西谷幸介訳『現代キリスト教霊性』(教文館)を読んでいる。冒頭の、近現代の敬虔主義における強迫的な(個人的・心理的)罪意識と一般社会常識との乖離への指摘は、あらためて論理的に指摘されてみると、学ぶものが多い。律法で罪を責め立て、福音で赦す。その、しんどい繰り返し。
これらに対してパネンベルクは、初期のルターはむしろ、この罪意識による強迫から解放された喜びを、信仰義認において語ったのではなかったかと言う。そして罪意識による自己嫌悪を誘っては福音を提示するという、リアリティのない説教よりも、ルターが体験したような意味でのキリストとの一致、すなわち聖餐における、個人を超えた神と人(々)との交わりを、と。
しかしどうせなら、どうやって「あなたもわたしも罪人です」を超える説教を語ることができるか、を語って欲しかったなあ。これでは説教はもはや小さな意義しかないような感じがする。説教から聖餐へ、は単純/楽観的すぎるような。
。“彼らによれば、あたかも信仰の内容は、それが純粋に主観的・個人的確信の立場から述べられるならば、批判的問いにたいしても安全地帯に置かれうるかのようである。”(同書、113頁)
『現代キリスト教霊性』読了。第5章での、久松真一阿部正雄による仏教における宗教哲学からの、ある意味「挑戦」を受けて、パネンベルクがルターをもって斬り返す技が秀逸だった。これだから仏教をとおして自己のキリスト信仰を振り返るのはやめられない。
阿部は、ローマ7:22における内なる人と罪なる自己との同時性や、フィリピ2:7における自己否定に、仏教的視座から深く共感しつつも、仏教における輪廻と涅槃との二元性の否定(「空」)に対して、キリスト教は信仰者とキリストとの二元性が残ると指摘する。これに対してパネンベルクは、ルターにおけるキリストに与ることとは、キリストとの一致であり、信じる自己がキリストとともに自己を差し出すことであり、キリストをとおして人々と一致することであると語る。さらには三一論にも言及しつつ、キリストと信仰者、あるいは神とキリストと聖霊とは、単純な二項(対立)ではなく、それぞれに峻別されつつも主客の二元論を超えると語る。
パネンベルクの、現実総体や意味総体といった、歴史全体を見渡そうとする神学には壮大過ぎてついてゆけないが、仏教との出会い、それも恣意的でなく誠実な出会いを通して、キリスト教を深く深く掘り下げる姿勢には共感する。そこには他者に曝されることに耐え、他者との出会いに喜ぶ、力強い思惟があるからだ。
読み終えてみると、パネンベルクが敬虔主義的な罪糾弾を強く拒む理由も分かった。「あなたは罪人です、悔い改めなさい」式の繰り返しでは、キリストはつねに二元論的にわたしの「対象」であり続ける。それはキリストとわたしとの、永久に埋まらぬ距離の虚しさと紙一重だからなのだ。