礼拝において、時が変容する

おとといより、アレクサンドル・シュメーマン著、松島雄一訳『世のいのちのために 正教会サクラメントと信仰』(新教出版社)を読み始める。「第2章 聖体礼儀」まで読む。礼拝が地上にいるままに天への上昇であること、機密(サクラメント)はイエスが感謝のうちに自身を天へと捧げたことの記憶と一致すること。
「宗教」と呼ぶ限り、宗教とそれ以外という狭いものに神を押しこめること。「聖─俗」で考える限り、どこかこの世の片隅に特別な場をしつらえて満足すること。ユーカリスト(感謝/聖餐)はそうではなく、まさにパンと杯を祭壇へ捧げることでイエスの献身と一致すること。それは喜びであること、等々。
「記憶」という言葉が鍵になっているようだ。“光栄なる再度の降臨を記憶して”は、未来のことだが「記憶」である。そう考えると、聖変化後のとりなしの祈りすなわち「記憶の祈り」もまた、たんに(過去の)死者を想起するだけのものではないのだろう。未来にともによみがえりに与るであろう者としての死者たち。