ドストエフスキーの合間に〜外山滋比古、『異本論』、筑摩書房

 8月13日
拡散と収斂 
外山滋比古『異本論』(筑摩書房)を面白く読んでいる。作者と読者の距離、そこに差し挟まる様々なノイズを異本化作用として、むしろ愉しむ。積極的に評価する。
ふとソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』を思い出す。バロックなどの音楽で若者が踊る舞踏会→当時のバロックは今で言うロックみたいなもの→コッポラはスージー・アンド・ザ・バンシーズなどのパンクをBGMに使用。貴族がクラブで踊るように踊る。だからむしろ18世紀末の「若さ」に対してリアル・・・・これなど距離と解釈の円環の、見事な結実かもしれない。
スーザン・ソンタグが『反解釈』のなかで使う「キャンプ」という語も、この距離感を愉しむ語なのだろう。解釈はひとりひとり無限にあるが、かといって無限に「散らばる」のではない。“反応はさまざまであっても収斂すべきところへおのずから収斂する”(59頁)。その「おっ、これは」という共感(収斂)を愉しむ感覚。
8月18日
泣くこと 
外山滋比古、『異本論』、筑摩書房、2010.を読了。自由な誤読の楽しさと研究の厳密さとの関係について、示唆を与えられた。たとえば“テクストに関しては、原稿に近いものを正確と考えるのは当然である。ただ、作品の意味、解釈について、作者の意図を絶対視する考えに立てば、古典成立は事実上否認されることになる。”(171頁)。
外山は言葉の意味の変化と文学の受容とを類比的に捉える。新語が出来れば、そこにさまざまな意味が与えられる。かといって、四方八方滅茶苦茶な意味が多数与えられることはない。それが語として生き残るなら、意味群は落ち着くところに落ち着くだろう。文学もまた然り。それを「収斂」という言葉で彼は説明する。楽観的過ぎる気もするが、自由な解釈を許せば文献学はどうなるのか、という反論(不安)に対する有効な弁護でもある。こうした解釈の力学を解明する面白さとして、文献学も史的研究もなお(新しい意味を与えられて)有効である。誤読を禁じるのではなく、古典化へのプロセスとしての誤読(異本化)の深さを裏付けるものとして。
ところで、“現実に悲劇が起これば、おもしろがってながめてなどいられるわけがないが、芝居という建前があると、これを鑑賞することができる。アリストテレスが演劇の効果としてあげているカタルシスも、非当事者的理解のもつ心理的作用を言ったものであろう。”(82−83頁)、これに非常に興味をもった。
連れ合いが親族を立て続けに失った体験を持つ。繰り返し泣くことによって、徐々に落ち着きを取り戻してゆく。あるいはわたし自身、何らかの問題にぶつかり、泣けずに苦しむことがある。ところがそれを誰かに相談した途端、号泣してすっきりする。そのような体験における「泣く」ということの重要さ。泣くことは自らの苦しみを演劇化、客観化する作用なのかもしれぬ。苦しみの当事者であったわたしは、泣くことで、少なくとも泣くあいだ、泣いたあとしばらくは、傍観者となることがゆるされるのだ。