これぞ異本化の粋

http://mainichi.jp/select/world/news/20101101ddm012030129000c.html

 たいへん面白い記事だ。ドストエフスキーを読まなくなったロシアの若者が、ロシア語に翻訳された村上春樹におけるドストエフスキーの影響を知り、そこから自国の古典に入ってゆくというこの順序。まさに外山滋比古が『異本論』で予言していたことではないか。長いけれどもぜひ引用しておこう。

“社会的異本は同時発生である。歴史的異本は時差発生で、後にならないとわからない。将来その歴史的異本がどうなるかをいま知ることができれば、どんなに好都合か知れない。現代文学史も可能になる。
 時間の軸で起ることを空間の軸で起っていることによって判断することができないか。外国文学について下す評価は社会的異本、つまり、空間の軸での現象である。
 それと同じくらいの距離をもった時間の軸で歴史的異本の収斂が起るとすれば、社会的異本と歴史的異本の向う方向は同じであると考えてよいように思われる。空間の軸の距離を現在を起点とした時間の軸に移せば、現時点において将来の古典形成期にどのような異本が生れるかをいくらかでも予測することができる。すくなくとも見当はつく。
 かくして外国文学の研究は作品について、その運命を占うことで自国文学の研究方法に貢献できる。それと同時に、外国文学の本国に対して、歴史的異本の収斂点を予測する先見性によって、独自の発言権を確保することが可能になる。” 
外山滋比古、『異本論』、筑摩書房、2010、167−168頁.ただし初刊は1978年)