日常の教義学

 連れ合いが、小さなアルバイトをはじめた。うまくいくかわからないが、応援したい。
 彼女が退院してから今まで、いろいろあった。吹けば飛ぶような愚かな夫婦。
 ドストエフスキーの『悪霊1』(亀山郁夫訳)を先週の水曜から読み始める。やはり面白い。2や3はいつ出るのか。
 ドストエフスキー作品の面白さは、語り手にあるような気がする。物語の語り手は、上から目線ではない。物語の渦中に巻き込まれ、一緒に嘆いたり喜んだりしているように思われる。
 だからこそ、吹けば飛ぶような愚かな登場人物たちも、それでいてなぜか皮肉を感じない。絶望的なもののなかに、あたたかさを感じる。
 わたしが信じている神も、そのような神なのかもしれぬ。吹けば飛ぶような愚かな夫婦であるわたしたちと、一緒に涙し笑う、わたしたちを語る語り手たる神。
 あるいはテクストからは決して遡り得ないとはいえ、その気配はつねに感じるところの作者ドストエフスキーにあたるのが、神なのだろうか。そうだとしても、ドストエフスキーもまた冷静ではないように思われる。彼の動揺、彼の狼狽、そして彼の愛は、遡り得ないとはいえ、気配としてそのテクストに刻み込まれているから。
 神は遡り得ない作者。あるいは登場人物たるわたしたちには見えない語り手。しかしその気配、その息遣いはわたしとともに、わたしたちとともにある。その息遣いこそが聖なる霊であり、語り手がわたしと火花を散らすそのぶつかりあいこそが、イエス・キリストである。そう思うから、きっとわたしは三位一体の神を信じている。