祈りについての走り書き

 連れ合いが食卓で「お祈りって、手を前で組み合わせて『アーメン』て祈るのでないとあかんのかな」と尋ねてきた。
 その場ではありきたりな答えで応えた。「それだけが祈りじゃない。たとえば日々の生活のなかで神さまと対話するとか」云々。連れ合いはさらに質問。「それってお祈りじゃなくて、神さまとの交わりなんじゃないのかな」。
 なんでもない会話だったが、ひっかかり続けている。たとえば“神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。”(詩編69:2)のような祈りは、どのように祈られたのか。胸の前で手を組み合わせている場合ではないような危機的状況のなか、この人(人々)は思わずそう叫んだのか。
 それとも、手を組み合わせて祈っていられるような状況ではないにもかかわらず、敢えてこの人は祈りの時間を割き、跪いて手を合わせ、目を瞑ってこのように「静かに」祈ったのだろうか。ボンヘッファー
 「お祈りしています」とメールその他でレスするとき。そのレスするという行為が祈りなのか。というのも、その後で手を合わせ目を瞑ってその人のために祈ったことが、果たして何度あっただろうか。あるいは、相手からそのようなレスが来たとき、まずはホッと一安心するにしても、相手がまさに今祈ってくれていると感じたことが、何度あるだろうか。
 トイレに神聖さを表すオブジェを置いたアートを観たことがある。この芸術家は祈りをよく知っている。なぜかトイレや湯船のなかでこそ、祈りに集中することがある。
 祈りを思い出し、繰り返し学習する豊かさとしての礼拝の側面。