引用が自分自身に

 今日聖書通読した折、以下の言葉と遭遇。“こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。”(歴代誌下36:21)。荒廃が、それも絶望的荒廃が、どうやって安息につながるのだろうなどと思い巡らす。国破れて山河在り。
 夜、NHK歴史秘話ヒストリア』という番組で高山右近をとりあげていた。あまりにも美談にされ過ぎているのかもしれないということを割り引いて見るにせよ、それでも刺激的であった。自分の息子か領民かという究極の選択を迫られる場面(結局自分が武士アイデンティティを捨てることで両方とも助かる)、大名の地位を捨ててでも信仰を守り流浪の人生を選ぶ場面など、いわゆる「信仰と倫理」の問題を地で生き抜いたような人物だ。彼がアブラハムのイサク献供の物語を、それもキルケゴール的な意識で知っていたかは分からないが。結果的に彼はフィリピンで熱烈歓迎のうちに人生を閉じ、スペインの聖堂にまで“UCANDONO”と銘された肖像モザイクが描かれているという。
 秀吉から棄教を迫られたとき、“人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。”と右近は答え、身分を捨てたという。マルコ8:36を、NHKは「右近の言葉」と引用していた。マルコ福音書の言葉を引用ではなく自分自身の言葉として発話できるような生き方を、なるほど彼は行ったように思われる。当時キリシタン福音書そのものは読んでいなかったことを踏まえたうえで、それでもそう思う。