古臭さと古典とのあいだに

 聖書通読、ネヘミヤ記まで読了。民族とは何かについて考える。
 ある研究者が、ユダヤ人との対話のためには、キリスト教の三位一体論は克服されねばならないと語っていた。しかし譲歩してイエス預言者の一人としたところで、ユダヤ教からそれさえ認めてもらえないなら、ユダヤ教キリスト教とを四苦八苦して整合させるにも限界があるのではないか。レヴィナスキリスト教理解。
 エズラ・ネヘミヤの流れは現代のパレスチナ問題とのつながりがある一方で、弱小民族がおのれのアイデンティティを守るための、当時の精一杯だったとは言えないか。古典における差別的表現の取り扱い。そうでなければ、現代人が現代の価値観で古典を読むことは不可能にならないか。
 読みにおける緊張関係。「そういう時代だったから仕方ない」は、歴史への無反省につなが「排他的で読むに耐えない」は、史料の軽視や切り捨てにつながる。かといって二者択一でもない。何人かの宗教改革者は反ユダヤ的言動をした。だから読む価値がないのか(言い換えれば「古臭い」のか)。それでも読むのか(言い換えれば「古典」なのか)。
 しかし「じょうずに読む」、バランスは可能か。少なくともわたし自身はバランスなどとれておらず、「そういう時代だったから」に傾きがちであることは念頭におくべし。それが行き過ぎれば、現代への批判も鈍るだろう。