教義学を生きる

 潜っている臨床牧会の講義で、今日は三位一体について考えるというテーマだった。学生さんがいるのに、なぜかわたしが当てられてしまい、自分なりの三位一体論を展開した。するとさすがは先生、日ごろからのわたしにとっての課題である「どこまでは自分が主語で、どこから主に委ねるのか」という問題点をきっちり指摘してくれた。
 チャペルアワーは合同礼拝だった。まだ新しい神学部自治会の学生たちが、おそらく考えに考え、ひねりにひねったページェントを演じていた。見ているほうがちょっと恥ずかしくなる場面もあったが、一所懸命に考え行動する学生の姿に感銘を受ける。
 礼拝全体は、説教もなく、きれいな歌や上手な演奏とあっさりした祈りで、スマートで淡白なものだった。総合大学の総合礼拝だから、たぶんあんな感じでいいのだ。
 
 講義の最初、金曜日に22歳でスキルス性胃がんで亡くなった方が残した「証し」について、先生が語ってくれた。マルチュレオーの語義をあらためて噛み締めた。