備忘録 詩編の印象

 昨日午前中に詩編の最後の30篇くらいをいっぺんに読んだ。
 今まで詩編を礼拝のツール的には扱っても、自分の言葉として読んだことはなかった。
 おとといちょっとしんどいことがあり、昨日は朝から祈る気持ちがしなかったが、詩編は開いてみた。すると、祈ることのできない自分の代わりに祈ってくれている言葉たちがあった。
 詩編には嫉妬がらみの憎しみから発する見苦しい訴えが、露骨に随所に見られる。それが祈りの言葉となっている。そして祈りの人は、おそらくそう祈ったとして大して状況は変化しなかっただろうに、なぜか別の箇所では感謝と賛美をささげる。まるで願いが叶ったかのように。
 史的な成立事情はいったん置いて、詩編をひとりの人の祈りとして見るとき、それらの言葉はなんと自己満足的で、そしてなんと安心できる祈りだろう。自分をとり巻く状況が、祈った結果変わらなかったとしても、それでも祈る人は、見苦しいつぶやきを感謝へと変えられる恵みに与るのだ。そして再び醜い言葉を吐き出しても、さらにまた賛美へと。