出来事の「後」にはじまるもの

 神戸栄光教会の兵庫県南部地震追悼礼拝に出席してきた。神学生時代は不真面目から、そして任地は遠方だったため、ことごとく出席したことがなかった。
 わたしにも地震の体験はある。しかし地震「後」の体験のほうが大事な意味を持つ。地震というキーワードを(も)通して、ある友人が出来た。その友人に連れられて行った教会は、まだ傷痕生々しい仮設だった。そして美しい建物が再建された頃には、わたしは神学生としてそこに通うようになった。その延長線上に今の自分の仕事(まあ無職だけれどもそれはおいといて)がある。
 追悼礼拝後、連れ合いをいろんな人たちに紹介できた。また、何人かの親しい人々と近所の天ぷら屋に夕食に出かけた。思えばこれらのかけがえのない人々とも、かつて上記の友人から紹介されて親しくなっていったのである。当の友人はといえば、遠方で教会の職務を果たしているため、そこには居合わせなかった。けれども夕食中わたし達はつねに彼のことを話題にし、談笑していたのだった。
 地震というのは想像を絶する体験だったし、地震の揺れそのものは思い出したくもない。だが、地震の「後」の物語、これは何度でも思い出すだろう。辛いことも、そして幸いもすべて。