痛み

 井筒俊彦訳『コーラン』上巻を読了。コーランは後半になるにつれ、ムハンマドの初期の預言へと遡るらしい。そして初期のほうが鋭いと。楽しみだ。旧約聖書続編はマカバイ記一まで読了。登場人物が多すぎてとにかく分かりにくいので、サンドやウィキペディアを参照しつつ学ぶ。
 週末にバナナの包装を開けようとして、鋏で指の肉を切った。その日は一日中出血していたが、日月火と過ぎてだいぶ回復。傷口に新たな肉が埋まってゆくさまを毎晩見ていると、細胞の不思議さ、生きている実感を感じる。
 ジョージ・シアリング訃報を知り、レコードを聴こうとした。レコードが回りかけて、止まった。以降スイッチをいくら押しても、うんともすんとも言わず。前の持ち主だった姉から譲り受け、30年近く働いてきたレコード・プレイヤーが、ついに沈黙した。
 和田寿郎死去をめぐって検索していたら、「ラザロ徴候」なるものを知った。脳死を死とすることに疑問を提する場合の論拠の一つらしい。聖書のラザロの復活から名前がついているという。http://fps01.plala.or.jp/~brainx/asahi1.htm
 他者の痛みを知ることができるのかという、野矢茂樹の議論を思い起こす。野矢によれば複雑な考察の結論として「知り得る」とのことだった(『哲学・航海日誌』)。しかし論理学の分野では野矢のような結論は珍しいのかもしれない。朝日俊男の論を見て、なお痛みの不可知を思う。
 書店で永山則夫無知の涙』を立ち読む。秋山駿のあとがきに思い悩む。確かに永山は犯罪をとおして自己を確立したのだ。そして確立されゆく自己の痕跡であるテクストはすさまじい美しさを放出している。存在を失った人間が殺人をとおして存在を獲得する・・・しかしそれが美となることを認めるなら。
 秋山のあとがきは短いだけに、問題を提起する。存在を獲得した永山の放つ美はすさまじい。しかし存在を奪われた四人の人々のくぼみ、決して埋められない不在はどうなるのか。同時に立ち読みした柳澤桂子『われわれはなぜ死ぬのか』の印象と相俟って、“他人の死”の問題抜きには考えられない。