まねぶ/学ぶ

 日曜美術館で見たゴッホが忘れられず。彼の書簡集を読めば分かる事だが、ミレーを徹底的に模写し、スーラを模倣し、色彩や技法を何度も試す、その学び/まねびからオリジナリティを獲得する努力には深い感動を禁じ得ない。
 ゴッホは牧師としては挫折したのかもしれないが、彼の学び/まねびには神学的姿勢が貫かれている。まず受容の驚き、受動の喜びがあり、それらによって自己が初めて浮き彫りにされる。
 先輩がアルバイト面接の日付を知らせてくれた。うまくいったらいいな。
 “父なる神だけは存在するが生きた子としてのキリストが不在のキリスト教は、まさしく服従を廃棄するものである。”(ボンヘッファー著、森平太訳、『キリストに従う』、新教出版社、2007、35頁)
 “しかし、先ず信じられなければならない、しかるのちに従順が継起するというような、何か一時的な気分のようなものがそれによって生ずるならば、信仰と従順とは切り離されてしまうし、いつ従順が始まらねばならないかというような、全く実際的な問題が未解決のまま残るのである。”(同書、42頁)
 ボンヘッファーを読んでいて熊野義孝の言葉を思い出した。“したがって義認論は一方において信仰者の実存すなわち彼の信仰生活の実態がこの(〈義認〉の)光のもとにたえず点検されていくことと、他の一方においてそこに神の赦罪の恵みとその成果とが実証されていくこと、この両面にわたる構造である。ところで、従来この両面は「義認と聖化」という関係を設定して取り上げられたが、私見によればこの仕方は適切ではないと思われる。「義認〈と〉聖化」という設問によって前提されることがらは、おのずから両者の距離を含み、そして一般には義認〈から〉聖化への道がどういう経過をたどるのか、それとも「義認〈即〉聖化」か、「義認と〈さらに〉聖化」と考えられるかというような極端にまで至る。”(『熊野義孝全集第八巻 教義学下』、新教出版社、1982、333頁)
 また別口での、別の牧師さんとのお仕事の相談。いろいろな方向から、いろいろな方が、それぞれの得意分野を用いてわたしと連れ合いを支えようとして下さる。涙が出るほどありがたい。また有り−難いだけに、襟を正し自己の足りなさを繰り返し悔い改めようとの気持ちにもなる。