奇跡と日常

 奇跡≠レアグッズの喜び。イエスとの出会いで「生き方を変えられた」と興奮して大喜びしても、落ち着き、冷める。それは奇跡ではない。奇跡は瞬間/点ではなく持続/線への契機である。契機として有効であるなら、それがわたしにとってネガティヴなものにしか見えない契機でもいいはずだ。
 マタイ19:22の青年の悲しみでさえ、もしも青年がこのあと何年も後になって復活の主を思い起こし立ち返るなら、この悲しみは奇跡だったと言える。奇跡の厚みは、苦しみをイエスの十字架、復活への苦しみであると受け取りなおすことへと収斂させる。
 『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂”はこうして作られた』の録画を昨晩観る。ナショナリズムの成立。そこに国益と個人利益の一致、さらに個人のコントロールを超えて国益が暴走しゆく病巣が大きく関わったこと。「わたしたちはひとつのネイション」はメディアのイメージであること。
 “美術館は美しい品を陳べる場所ですが、不思議にも美しく陳べている所は非常に少いのです。何をどういう位置におくか、光はどうか、互の色どりや大きさはどうか、これを列べる棚はどんなものが似合うか、これ等は当然考慮に入れるべきことですが、結果から見ると感心させられる陳列は非常に少ないものです。もっとも陳列は優に一つの藝能なので、誰にでもできるとは云えません。(中略)物がよくとも列べ方がまずかったら、物はその美しさの半を失うでしょう。私達は事情の許す限りできるだけ陳列に留意しているのです。”(柳宗悦著、『民藝とは何か』、講談社、2008、112頁。)
 久しぶりに松岡正剛の「編集工学」という概念を思い出した。柳宗悦は「直観」という語を多用するし、いかにも時代の子というか、観念論が主流だった頃の本質主義を連想させる。しかし彼は民藝を伝えたいという熱意ゆえに、編集、パッケージ、組みあわせの美しさへのこだわりを忘れない。非常に新鮮。
 『民藝とは何か』読了。珍奇さゆえに重宝されるのではない、素朴な日常に息づく道具たち。
やはり映画『ヤコブへの手紙』を想起。盲目の牧師が、人生の最後に、殺人の前科のある、信仰のかけらもない(と見える)女性と関わる。最後に彼は、自分のしてきた仕事がすべて自分の業ではなく主の恵みであったこと、赦しは人間にはできないが神にはできるという深い受容のなかで人生を閉じる。  
 その映画のラストシーン、牧師が「お茶にしよう」と部屋に行ったきり戻ってこないので、女性が様子を見に行く。すると、牧師愛用のカップが床に落ちて割れている。そこから目を移すと、牧師が天に召されていた。 愛用の食器。そのかちゃかちゃいうぎこちない音。
 最後になって、その器が割れること。そして牧師が安らかに天に召されること。柳宗悦が民窯に「直観」したのも、あるいはこういう真理だったのかもしれない。
 わたしは息子・柳宗理のデザインが好きだ。しかし今回父・宗悦の文章を読んで、なるほど、宗理は宗悦の思想を実行したのだなあと、あらためてその奥深さを知らされる。