蘇った痕

14日
 石原慎太郎氏が、今回の震災を「天罰」と表現したという。それが政治への批判と言うコンテクストであったとしても、到底受け入れられない。人間が「これは天罰である」と規定した時点で、それは人間が主語であり、人間による暴力であっても、天からのものではない。
16日
 いろいろなことが「不謹慎である」として自重されているのだろう。けれども、長期に今回の出来事と向き合うためにも、リラックスする息継ぎを繰り返すこと。そして、もどかしいかもしれないが待つことだ。16年前、一枚のCDを久しぶりに聴いたときのあの解放感を、できるだけ多くの人と味わいたい。
 直接に被災しておられる方々の苦しみは想像を絶するものがある。しかし、今までに日本各地で起こってきた災害で被災された方々が、今再び恐ろしい記憶を強制的に呼び起こされ苦しんでおられるであろうことは、16年前に被災した者として想像することができる。
 洟をかみすぎてティッシュがなくなってきたのでスーパーに買いに行ったら、すべて売り切れていた。わずかにトイレットペーパーがたった1セット残っていたので、それでも洟はかめるだろうと購入。食料品もインスタントものを中心に品切れ。ガスボンベを大量に買うお年寄り。
18日
(レス)「まあ、要はバランスだよね」とかいうのは、答えること、不完全でも真剣に答えることから逃げることなんだと思うのです。バランスを崩しつつも、それでも生きるというなかで、人は十字架というアンバランスの極みの福音に出会うのだと。
(レス)よかったですね!そういう喜びを分かち合いたいです。
 『万葉集』(中西進訳注)を読んでいる。いちいち訳を読まず、たとえ意味が殆ど分からなくても、落ち着く。そういう意味では時折開く『正法眼蔵』も同じ安らぎを与えてくれる。それぞれの時代に戦乱や疫病が絶えなかったであろう、その厚みをもった、静かなことばたち。
 東大寺盧舎那仏にせよ、平等院鳳凰堂にせよ、身分の高い人間の自己満足だったといえばいえなくもない。けれども、それぞれの時代に想像を絶する災害や疫病、戦乱があり、そのたびに人々は祈ってきたのだということは、これらの建造物から想像できる。今、自分は、どなたに対して、何を祈るのか。