他人の苦しみ

 あまりに気心の知れた友人というのは、いざ近くに住んでいたりすると、意外と会わない。そんな友人と、おとといかなり久しぶりになんばで落ち合い、日本橋界隈を歩き回る。東の秋葉原、西の日本橋といったところか。彼との付き合いも、今年で四半世紀を迎える。
 『正法眼蔵』の「神通」を読み終え、「大悟」を読んでいる。奇跡は日常から飛び出した非日常ではなく、まさにまったくの日常茶飯事が仏の奇跡を現していること。悟りと迷いとを二分法的に分け隔てるのは誤りであり、悟りと迷いとはダイナミックな関係にあること。
 そこでわたしは連想する。わたしの苦しみは所詮誰にも理解してもらえないのだということを、誰もが理解しているからこそ、誰にも理解されないわたしの苦しみは他人に理解される。なぜならキリストが、それこそ誰にも理解できない孤独な十字架の痛みと死を負ったことを、人間は理解したから。