神義論、孤独と交わり

 旧約聖書続編、やっと読み終える。『エズラ記(ラテン語)』のエズラのくよくよする問いが、今読むと素朴でもあり共感も呼ぶ。なぜ信仰深い(正しい)人が傷つき死ぬのか、なぜ悪人が栄えるのか。救いはいつ来るのか。裁くというけれど、そもそも悪人だ善人だと、なぜ神は作り分けたのか。
 エズラの連発する問いに押されて、天使が考えを(しぶしぶ?)改める場面さえある。ヨブ記詩編で神学的に洗練されていた問いが、ここではとことん人間臭く、いわば庶民の目線から問い直されている。
 “人間は、このようにして孤独において──すなわち分裂の肯定において──交わりを、もちろん分裂した者としての交わりを、交わりそのものの中にいる時よりもより強く経験することができる。しかし常に、両者すなわち孤独と交わりとが存在していなければならない。”(ボンヘッファー著、森野右衛門訳、『現代キリスト教倫理』、192頁)
 ボンヘッファーの「パリサイ人」(上掲書)は新鮮だ。パリサイ人(ファリサイ派)がまったくふつうの人たち、善悪を判断し、他人に寛大であろうとし、しかもそうできず他人を批判してしまう常識ある人として共感的に描かれる。だからこそそこに突如現れるキリストへの驚きと反発がいきいきと伝わってくる。