真理を眺めるのではなく、背負う

 ボンヘッファーの『キリストに従う』に引き続き、『現代キリスト教倫理』を読了。テートの論文を以前読んだときに、罪責についてのあまりに厳しい考察ゆえに、もしもヒトラー暗殺が成功していても彼は自裁したのではないかと思ったものだったが、それは違うと分かった。
 現実に即応して生きることは、現実に流されることと紙一重であることの、究極の責任の重さを自覚しつつ、しかも、与えられた現実のなかで喜び、楽しんで生きることのおおらかさをも肯定する。キリストに集中する排他性のなかで、むしろ中途半端な「どれもいい」よりもずっと寛い生き方が読み取れる。
 真理は誰が、誰に話すのか、どんな状況において話すのかで、さまざまなかたちをとること。嘘さえ、状況によってはそこに真実があること。嘘と虚偽との区別。ボンヘッファーが『倫理』末尾で語る真理論は、本人はそれどころではなかったはずだが、ポストモダンに限りなく近づいている。
 『ボンヘッファー/マリーア』を読み始める。どちらかというとマリーアの手紙が中心のようだ。20代前半の彼女にとって、父と兄、二人の従兄弟が立て続けにロシアで戦死した上に、婚約者まで逮捕されるというのはどれほど重い現実か。
 待つこと、期待することは、実は限りなく積極的で現実的な行為なのだ。ボンヘッファーにしても、静かに祈ること、祈って待つことをじっくり噛み締めていたからこそ、限られた範囲であっても限界まで行動できたのだと思う。とことん能動的な受動性。