後悔

 夕飯の買い物の帰りに、スーパー前の噴水そばのベンチに腰かけ、缶コーヒー。春風を浴びる。家路にて、人家の桜を見上げる。昨春宇和島で桜を見ていたとき、来年は此の地で此の桜を観るであろうなど、予想だにしなかったことを想う。
 悔い改める(メタノエオー)とは、後悔の意。つまり振り返って(メタ)見える(ノエオー)ことがらに心痛めること。
 しかも見える(ノエオー)ことは見る(エイドン)こととは違う。見る能動性ではなく見え、開け来たるものを受ける受動性。
 悔い改めるこのメカニズムは、だから時間を要する。振り返って見え来たるものが、惨めな自己でしかない時間を、持ちこたえ耐え忍ばねばならないかもしれない。
 しかし振り返って、キリストが立っておられるのが見えてくるかもしれない。悔い改めることは、キリストが見えることへの賭けだ。いずれにせよ信仰とは単なる「前向きの」信念とは異なる在りようである。
 この杯を取りのけて下さいと祈る。しかし、行きたくないところへ連れて行かれることで栄光を証すことも知る。躊躇いと委ねとの弁証法の躍動において、信仰は命となる。