自由の深み

 説教中に感極まってつい「キリストは慈悲深いお方なのです」と語ってしまい、後で信徒から注意された事がある。しかし誤解を恐れずに言うなら、わたしの苦しみを取り除き給い、わたしに生きる喜びを与え給う主は、やはり慈悲深いお方なのだ。
 自分にとって主はキリストのみ。それは他宗教と比較できない出来事。だからこそ他宗教に敬意を持ち、自己の文化的ルーツとして接することができる。もしもこの確信が揺らぎ、他宗教を「比較の対象」と見るなら、そこに優劣の価値判断が侵入する。
 排他的に信仰することは、むしろ自分にはこれしかない、比較などあり得ないという地盤に立つことにより、比較に始まる優劣の価値判断から自由にされることだろう。なればこそ、それは自分と異なる宗教、他者と向き合う契機となるはずだ。
 だから、自分の味わった救いを他者と分かち合いたいという溢れ出る思いと、自分とは異なる他者の信仰や価値観をそのままに尊重するということとは、実は矛盾しないのではないか。
 立ち寄った書店で、やっと亀山郁夫訳「悪霊」第二巻が並んでいた。ずいぶん焦らされた。これのために残額をとっておいた図書カードで即購入。読むのが楽しみ。
 『般若心経』の解説を読んでいると、原理原則という客観化された真理に縛られない自由さが垣間見える。それは無気力な相対主義なのではなく、まさに目の前の現実の只中に真理を見出す姿勢である。ボンヘッファーが、キリストに集中するがゆえに原則的真理ではなく現実にこそ向き合ったのを思う。
 前に進んでいるのか後ずさっているのか本人にはわからないにせよ、とにかく動いている。静止していない。現実に関わり、肯定し、楽しもうとする。仏教のそういうところに、親しみを感じる。