はるばる東へ

 以前は無い物ねだりというか、他人の芝生は青いというか、自分の信仰に足りないものを他宗教に求めていた。今、キリストに排他的に集中することに喜ぶ。だからこそ、他宗教との出会いにキリストを観る。
 昨晩、金岡秀友校注『般若心経』読了。聖書で言えば死海写本にあたるような、般若心経のインドの最古の写本が、法隆寺に現存していたとは知らなかった。インドの葉に書かれたサンスクリット語のテクストが、はるばる日本にやってきて、歴史の荒波に世界の諸写本が消え去るなか、現代まで生き残ったのだ。
 チベットや中国の諸訳、法隆寺に伝わるテクスト等から般若心経を校訂する。また校訂の歴史を見る。聖書学にきわめて親しいものを感じた。金岡の“純一無雑な「原典」などというものは、決してこの世に存在せず、はるか時代の下ったテキストか、いくつかのテキストが「原語」で書かれて残っているにすぎない、これが現存「原典」だということを、ひとびとは知るに至ったからである。”(同書、236頁)は、キリスト教において、教派性ないし教義性(教会という現実)からまったく自由な聖書理解があり得ないことと通じている。お坊さんにその辺の事情を聞いてみたいものだ。
 午前中、洗濯機をまわしているあいだに、一念発起して掃除機をかける。ちょっと気持ちが晴れる。