大きな布のような入れ物

 うーん、夕方まで寝てしまった。しかも、起きられないという夢をみていた・・・・・
 7月17日の礼拝依頼を受ける。今月頭に衝撃的な躓きを味わって、受けていた仕事の依頼を一度すべてキャンセルしていた。もう礼拝で喜びを語るなど無理だと思ったから。けれども、わたしは単純だ。日にち薬で、また礼拝の仕事を受けててみたいと思い始めている。
 で、7月17日の聖書日課から、どれもいいので悩んだが、使徒言行録11:4−18*1にした。むかし(絶望的に見込みの無い)大学受験へと向う旅の途中、頒布版の新約聖書をポケットに忍ばせていた。そして不安の極致でたまたま開いた箇所が、使徒言行録10:9−16*2だった。
 「こんな、あらゆる意味でハズレな自分でも、神さまは大きな布のような入れ物に大切に容れて下さっているんだ」、そう思うと自分の小ささとキリストの愛の大きさとで涙がこみあげた。たぶん、聖書を読んで涙が出るという体験は、これが生れて初めてだった。
 もちろん受験に落ちた辛さで、そんな喜びなどすぐに忘れてしまったのだが。信仰の喜びを持続させるには、わたしの信仰はあまりに幼い。けれども、持続は無理でも、ほんのときどき、でも長い目で見れば何回も、この喜びを思い出して、反芻することぐらいはできる。

*1:そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた/三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

*2:翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。