呼びかけが聴こえる

 “「我れのみが確実である」と‘書く’のはそれ自身矛盾である。書くのは言葉の文字的表現であり、言葉はただともに生き、ともに語る相手を待ってのみ発達して来たものだからである。”和辻哲郎倫理学(一)』、岩波文庫、76頁。
 先日天に召された方のお連れ合いと話した。彼女が若くからクリスチャンであったのに対して、彼は老境に入ってからの受洗。科学者としてのそれまでのキャリアを誇ることもなく、全くの初心者、年少者としての信仰生活であったという。精力的に神を求め、学んだと。
 わたしは自分がいかに小さなプライドにしがみつき神を拒絶していたかと、その証しを聴いて赤面した。
 『倫理学』第一章第二節まで読む。まるでヴィトゲンシュタインでも読んでいるみたいだ。個人の秘奥へと玉葱の皮を剥けば剥くほど、言語の共同性がことごとく立ち現れる。神の前の絶対的な孤立者は、究極のところ神に隅から隅まで見られた非孤立者である。じゃあ個人、人格ってなに?面白い!
 和辻はカール・バルトの名前こそ出さないが“この点を特に鋭く捕えたのは弁証法神学者であると思う。”(124頁)と語る。明らかにハイデガーと同時にバルトを強く意識したのだ。