かろうじて接ぎ木

 ヘブライ人への手紙を読んでいる。1、2章で天使と人間が繰り返し比較されるなかで、イエスが今生きているわたしたちに関わって下さることを学ぶ。“あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。”3:13
 “だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。”4:1恩師が繰り返し強調される「今」を思いつつ。
 (配達に)出発しようとしたらカッパがない。よく盗まれるというので、不安と苛立ちのなか、上司のを借りて出発。配達先で、こんどは携帯端末がブラックアウト。雨のなかひとつひとつの追跡郵便物の長いコード番号を手帳に。そんなこんなで、物量は比較的少ないのに、大量の郵便物を午後へ残した。
 こういうとき、他人や神を疑う自分の小ささちっぽけさに、恥ずかしくなる。カッパについては、ライス麺定食大盛りをやけ食いした後で、「すみません間違えました」と素直に名乗り出てくれた人と出会ったのだった。
 ローマの信徒への手紙じゃないけど、こういう追い詰められた状況のとき、自分の信仰がいかに接ぎ木であって生木でないかがよく分かる。深い罪の上っ面に継ぎ足された信仰。キリストからの憐れみなしにどうして維持できよう。