休暇のつぶやき1

和辻哲郎の『倫理学』を読んでいて、つくづく人間は個人であるのとまったく同時にあいだがらの存在、他者たちとの関係のなかでこそ(のみ)成立する存在者なのだと実感する。他者から名指されてこそ、その人はその人としての自覚を覚える。
アウグスティヌスの『三位一体論』でも、子が子であるのは父との関係によってのみ、また父が父であるのも子との関係によってのみ、聖霊も父と子との関係のなかでのみ聖霊であることが力説されている。この「関係」ということこそが三位一体なる神の動態であると。
YHWHである神、ハーヤー(在る/成る)である神は、だから静かにそこに「在る」のではなくて、わたしたちの、そしてわたしたちひとりひとりの関係性、その動態に寄り添ってさまざまな在り方に成られる、成られ続けるのだ。
まったくの私見に過ぎないが、そんなことを思うにつけ、郵便配達をしていて「これなんて読むんだ?」という超個性的な子どもたちの名前を発見するにつけ、あいだがらを突き破ってしまうほどの親心、他者からどのように名指されるかなど想像だにしないであろう名付けの感覚に戸惑う。
かけがえがない、という感覚は、自分とは異なるさまざまな人々との関係において、その関係をとおして実感する感覚なのであって、彼/彼女という立体、その肉体、孤立したその空間の占拠それ自体が誰とも無関係に固有に尊いということではないはずだ。