休暇のつぶやき2

このあいだ母教会、日本基督教団とは違う福音派の教会に久しぶりに出席して、信徒の証しや配布物に触れて、大きな刺激を受けた。ストレートに主の奇跡を信じ、熱く語る。それも日常的な言葉で語る。神学の難しい言葉で複雑に言いまわす傾向があるわたしには、眼からうろこが落ちるようだ。
ミニストリー」11号*1を買った。前任地ではキリスト教書店さんが持って来てくれるので毎号購読していたものだ。辞任して無任所となり1年以上、神学書ともすっかりご無沙汰だった。
帰りの電車で掲載記事「親愛なるWとその父へ」を読んだ。この雑誌の冴えが光る。こういうことあるよねー、と、噂話で終わらせるのでなく、敢えて公けに、活字とすることの意義を感じる。
記事を読んで感じる疚しさ、これが大事だ。噂話レベルの場合、疚しさなど感じない。自分は安全なところにいるから。記事と一対一で向き合うとき、疚しさからの逃げ場はない。
記事「まちのボクシといなかのボクシ」を読んだ。わたし自身、地方教会で挫折し、連れ合いが倒れ、現在は無任所のフリーターという身の上なので、深く考えさせられた。読んで腹を立てる人も多かろうが、毒にも薬にもならない「信仰的な」記事なら、「信○の友」とかでいくらでも読めるんだからいい。
ミニストリー』を読んでいると、教会の闇が厳然とそこにあり、しかしだからこそそこに闇に輝く光もあるのだという、そのコントラストがくっきり見える。わたしもはやく牧師に戻りたい。ただ現実として、体調に上下ある連れ合い、そして来春には2年近くなる無任所暮らしの経歴を持つ牧師を教会は受け入れてくれるか。『ミニストリー』を読んであらためて感じたのは、もう過去の自分の経験を誇るのはやめようということ。地方教会で6年数か月やったのだ、とかなんとか。主がお許し下さるなら、もういちど、神学校出たての者として、なにもかもを真摯に、新しく受け取りなおしたい。
さて、あしたも郵便配達だ。休み明けだからふだんの倍はあろうな。年賀状の販売もあるし。きついが耐えてゆこう・・・・