個性と人倫性

 阪神・淡路大震災から17年。あのとき感じた、途方に暮れる思いや、逆に感謝して再出発した瞬発力を、今、生きているか。残念ながら、まるで地震など生まれてこの方体験したことがない、というほどに、生きていない。
 しかし一方で、そこまで記憶の彼方にすることもゆるされるのだ、とも思う。もちろん17年経っても昨日のことのように傷ついている人も多くおられるし、また、単純な同一視は許されないが、東日本大震災の被災者がこの災害を「そんなこともあった」と思える日が来てほしいと、せめて今日は切に祈る。
 和辻哲郎の『倫理学』における国家の人倫的意義についての論理を読んでいると、倫理の難しさが良く分かる。和辻も時代に生きた限定的人間である。だから、共同体性を語るときにはどうしても「滅私」が強調される(ことが多い)。たしかに個の利益の制約なき追求が、共同体の破壊を生むのは事実である。
 だが人倫性/よき共同体の実現のために、他人のために個が犠牲にされることを、それこそ「個の自発的」意志について詳細に語らずに「滅私」的に表現してしまうことの危うさ。倫理の持つ緊張感がそこに現れる。
 教師の日の丸・君が代の起立問題も、そうした緊張感が現実的な緊張となって立ち現われている。国家の人倫性、国家とまで行かなくても、学校の人倫性を語るとき、そこに滅私の美しさがさりげなく織り込まれる。そうすると当然、個の個たることは我欲追求の醜さとして浮き彫りになるかに「見える」。
 わたしも時代や、生育環境の子である。間柄的制約を受けている。だから素朴に感性のみで捉えるなら「みんな立つときには立てよ」などと苛立ったりするだろう。あるいは「教師なんだから手本を示せ」と直接的な怒りを示そうとするだろう。わたしの少年時代の教師は絶対的な権限を持っていたからである。
 和辻の語る倫理を真摯に受け止めつつ、しかも鵜呑みにするのではなく、もはや和辻が語るような意味での共同体が消えかけている現代に再解釈して受け取りなおす。そこでは和辻がどちらかといえば西欧的虚構として退ける「個」の優位を、和辻の指摘する欠点を受けつつなお固守する姿勢が必要である。
 人間が間柄的存在であるとき、日の丸・君が代を拒絶する人もまた、間柄的に拒否しているはずである。その人の、たった一人の思いつきで拒否しているはずがない。そこには人々による拒否の文脈があり、歴史があり、拒否に至る間柄がある。その間柄を尊重することが人倫性に適う在り方であると思われる。