殉教について、わたしの文脈から
いろいろなことに耐えるのは大事なことだ。けれど、耐える、もっと行くなら殉ずることを強調すると、問題に対する沈黙や無関心になってしまう。和辻哲郎的な倫理学においても共同体の調和を強調すれば、共同体を「乱す」「個を強調した」言動は慎まねばならぬ、といことになってしまう。
苦しい境遇にあるとき、ヨハネ21:18-19*1が慰めになることは事実だ。だがこれもまた、依存的にこの聖句に寄りかかると、この聖句が皮肉なことに「行きたくないところ」を抜群なすり替え術で「行きたいところ」に変質させてしまうツールになってしまう。
むしろ「行きたくないところ」へ向かわされることに対して必死で抗うこと、抗う態度を表明することのほうが、黙してそちらへ向かうより不名誉でしんどい思いをすることもある。ということは、「行きたくないところへ行くことを拒否する態度表明」こそが、この聖句の語る「行きたくないところ」なのか。
いずれにせよ、無任所教師という立場もあいまって、様々に闘う人々のツイートを拝読するにつけ、自分の苦境をいたずらに美化したり、他人に対して何らかの殉教的沈黙(実は逃避的態度の器用なすり替え)を語っていたのではと反省させられる。
前任地を辞任する前後にむさぼり読んでいたボンヘッファーの獄中書簡や彼の未完の倫理学を思い起こす。あの頃は彼の受苦や殉教的生涯に慰めを見出そうとしていたと思う。けれども、むしろ学ぶべきは、彼が二重三重に彼の向き合う現実と自己自身について考えを深めていったこと、彼が死の間際まで生きようと抗ったことにあるのではないかと思う。殉教は、諦めて苦しみを受け入れることではなくて、抗って苦しむことなのだ。そしてじたばたした結果、後で気が付いたら「殉じていた」(誰が気がつくのか、それは当事者以外かもしれぬ)ような姿勢のことなのだ。