カミカゼ

 昨日、小川圭治氏の訃報を知る。友人に勧められ読んだ『主体と超越』の新鮮さを思い出す。
今日は久しぶりに、少しばかり嬉しいことがあった。嬉しいことも悲しいことも、すべて「もたらされ」、「であう」のだという受動性を、とくにここ数年、ずっと生きている。
 『いま一度、宗教者の姿勢を問う(4)』:http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/963 #yaplog yaplog.jp/shinkichi1109/… 深く共感する。共同体に殉じることが再び尊ばれようとしている危機の時代に、宗教者が自覚しなければならないことが絶対にあると思う。
 万葉集を読んでいたら、「醸む」(かむ)という語に遭遇。註釈によると、古い時代には穀物を噛んで吐き出して発酵させたことに由来するという。唾液のアミラーゼの働きを利用したのだろうか。
 『倫理学』はまだ(三)の途中までしか読んでいないので断言はできない。けれども和辻哲郎倫理学においては、家族や地縁、ひいては国家など、共同体への深い信頼が前提とされている。それはそれで学ぶことが非常に多い。彼の共同体としてのキリスト教会理解など、神学といって差し支えない説得力がある。
 けれども共同体における自己と他者の相互理解を、和辻哲郎はあまりに楽観的に捉えているような気もする。彼の倫理学からは「過ちを犯す共同体」の姿は見えてこない。罪を犯す共同体は。罪を犯す個人は、共同体から追放されるだろう。だが、そこで終わる。
 共同体が一人の人間に揺さぶられ、自省を促されるような事態。そうした事態を和辻はどう捉えたのか。岩波文庫の詳細な註釈によると、『倫理学』は戦後に加筆修正がなされた箇所がいくつかあり、戦前のテクストも可能な限り註に掲載されている。このような「修正」を、和辻はどのような「反省」をもって行ったのだろうか。机の上で神学をし、礼拝の説教を準備する職務である牧師。その職務が自分の召された道であると信じているわたし。東日本大震災以降という時代において、「従いなさい」「殉じなさい」「そこに救いが」と語るのでよいのか。レヴィナスを曲解して、都合良く「徹底的な受動性にこそ積極性があるのです」と、信仰的忍耐ばかりを推奨していてよいのか。
 逆説は恐いものだということを知る必要がある。前任地は地方都市だった。周辺の教会はどれも信徒5〜10人だった。信徒1人の教会もあった。そしてわたしたち牧師同士は結束し合い、慰め合った。「数ではない。教勢ではない。むしろこの人間的な基準における小ささに、神の国の大きさが溢れだす」と。
 また、信徒同士でもそのような慰めが通っていた。小さな教会にはお金もない、人もどんどん減る。しかし具体的な対策を練ることもなく、わたしは力説した。「人間的な」現実が厳しいから「こそ」、そこに「神の」御業が現れる、と。もちろんそういうこともあるとわたしは今も信じている。逆説は真理である。だが、逆説は奇跡でもある。奇跡は、ほぼ起こらないようなことが起こるから奇跡である。
 奇跡は乱用すれば奇跡のインフレを起こす。それは奇跡でなくなる。奇跡でなくなった逆説はルサンチマンに変質する。わたしは地方の教会で逆説を強調し、信徒の眼を眩ませてはいなかったか。教会の現実から目を逸らさせてはいなかったか。あるいは自分自身を誤魔化してはいなかったか。『Ministry』を読むにつけ、反省を迫られる。