歴史と自由と

“これは恐らく人間存在の原理が本来否定性であることの反映であろう。エホバの神はすべてを‘あらしめる’神であって否定性の神ではないように見えるが、しかしその有はいつも最初の状態の‘否定’としてのみ呼び出されているのである。人間の歴史もまた知識の木の実を食ってはならないという‘禁止の命令によって呼び出された。禁止の命令はそれの犯される可能性のあるところにのみ成り立つものであり、そうしてそれを‘犯し得るもの’のみが充分な意味においてそれを守り得るのである。従って神が禁止の命令を与えたということは、人間がそれを犯すということと相表裏している。神意が否定の形に表現せられたように、人間の歴史も否定をもって始まるのである。その否定こそ自由と呼ばれるものにほかならない。”和辻哲郎倫理学(三)」178頁
 「ミニストリー」12号のキャンベルの説教と、平野克己の解説を読む。教会の社会への参与というか、世に遣わされ、世の只中にある教会について、改めて示唆を受ける。日本の教会に「社会の問題と向き合わねばならない」と批判をする際に、「これまで社会と向き合わず内面的、個人的救済の福音に終始したから」という理由だけでは十分ではない。そのような指摘だけでは、なぜ個人的内面的ではダメなのかという神学的反省がない。
 しかしキャンベルの説教は短いテクストのなかに、奇跡は瞬時の出来事やインスタントな救済ではないことを見事に語る。キリストの奇跡は時間をかけてじっくりと人から人へ溢れ出し伝わるものであること。自分以外の他人へと。しかもそれは自動的には伝わらない。自動的受動的な救いではなく、救いのプロセスへの「わたし」の参加決意が求められること。
 それは必然的に教会を社会的に開かれた存在にせずには置かないだろう。この場合教会は「今まで社会問題に無関心だった(と糾弾された)から」仕方なく諸問題に向き合うのではない。神学的な裏付けにより、もはやコミットしないことはあり得ない、信仰に衝き動かされ遣わされる教会となるはずなのだ。