信仰かつ倫理

学生時代の研究テーマだった、創世記22章の、信仰と倫理の問題に、少し今までと違った観点が与えられた気がする。今まで信仰と倫理を対立的に捉えていた。オウム事件9・11テロなどの極北から信仰を照射していた。信仰的決断は、究極のところ社会的倫理を超越(超絶)したところに至ると。
けれどもアブラハムとイサクとの間柄、そして何より神とアブラハム、神とイサクとの間柄は、人倫的な間柄を土台としているのではないか。アブラハムは孤独であった。しかし間柄抜きにひとりぼっちだったわけではない。間柄抜きに「個人」なのだとしたら、そもそもイサクを失うことが痛みとならない。
神とアブラハムという強力な紐帯、神とイサクというこれもまた強力な紐帯、そしてアブラハムとイサク、そしてサラとの裂き難い間柄。これら倫理的前提というか土台がなければ信仰以前に「試み」も成立しない。だから「信仰か倫理か」ではなく「信仰かつ倫理」なのだ。
もしも間柄を感じる感覚が麻痺すれば、間柄の否定性としての孤独、そしてそこから浮き彫りとなるはずの「われ」も麻痺するだろう。そうすると「なんじ」のリアルさも当然失われてしまうのだろう。「透明な自分」という感覚。








2012年1月25日 - 13:39webから· 詳細