配慮とおもねりのぎりぎりのところ

エレン・デイヴィス、リチャード・ヘイズ編、芳賀力訳、『聖書を読む技法 ポストモダンと聖書の復権』、新教出版社、2007を読み始めている。序や冒頭の九つの命題は、正直しんどかったが、やっとエレン・F・デイヴィスの論文に至り、大変学ばされた。
ユダヤ人とキリスト者との間の本当の神学的友情は、お互いが自分たちなりに解釈する「権利」を抑制しあうことによって成り立つわけではないということである。私の経験では、キリスト者が、テキストの核心部分について愛想よく自分の主張を犠牲にしたとしても、ユダヤ人は決してよい印象を持たない。(中略)しかし友情とは、率直であること、しかも同時に、自分たちの異なった視点や解釈について互いに敬意を払うことを意味するのである。”(同書、55-56頁)
“「旧」という修飾語は、この場合決して「廃れた」ということを意味しない。むしろ「年代物の硬貨」のように、尊敬に値する、長い歴史をくぐり抜けてきた権威を表明しているのである。”(同書、58頁)
以前、極端なまでにユダヤ人に「配慮」し、その結果、「イエス預言者の一人に“過ぎない”のです。だからわたしは頌詠を歌いません。」と語ったキリスト教神学者を前にして感じた違和感に対して、非常に示唆深いものがある。
頑固に自分の主張を通し続けることと、柔軟に相手の主張に耳を傾けることは、一見矛盾するようだが、実はどちらも大切なことだと思う。自分が何者であるのかをしっかり自覚し、それをむやみに明け渡さない。だからこそ、相手もまたそのような明け渡さざるものを持っている尊い他者であることが分かる。