まずは第1部

『ふしぎなキリスト教』第1部「一神教を理解する 起源としてのユダヤ教」を読んだ。社会学的視点だからなのか、ウェーバーばかりが典拠になっているのは気にはなる。また、わたしも含めて信徒がじれったさを感じるのは、彼らがさらっと通り過ぎる「コミットメント」の問題こそが、信徒の生活そのものだからだろう。
とはいえ、うまく説明しているな、と思える部分もある。奇跡と科学は対立項ではなく、一神教的世界観から科学が成立したことや、神による不変の自然法則があるという前提があってこその奇跡だというような説明。また、さらっとではあるけれど、預言は預言を受け取る側のコミットメントが要求される点。
わたしも含め信徒は「そんな単純なもんじゃない」と目くじらを立てるだろうけれど、あくまで“日本人が”、そう、マクグラスのような聖公会神学者ではない、無宗教の日本人が、さらっと、かといってテキトーではない仕方でキリスト教を見たらこう見えた、という点を教えてくれる点は貴重だ。
キルケゴールが、自分は国境の外側をぐるりと巡りつつ、外側からその国を観察したことを述べるのだと、『あれかこれか』のなかで書いている。国は信仰のことだろう。あえてコミットメントしないで、外から眺めるとどうなるか。キルケゴール自身はとことんコミットメントしている人間なので、それは虚構としてしか成立しない。橋爪氏や大澤氏はそれで言うなら完全に国境の外側からキリスト教について語っているのだ。国内に定住しているわたしが、国外から語られる批評に不快感を覚えるのももっともだろうが、そういう「立ち位置の違い」を意識しないと、ただの感情的アレルギーに陥る。
たぶん次号の『ミニストリー』がそうしてくれるだろうが、感情的なアレルギーではなくて、そうか、外から見るとそういう感じですか、と、いったんは傾聴し、その後で、「でも、信じているわたし(たち)は、あなたがたの主張のこの部分については、こう応えたいんです」というような表現をする可能性。
そこから、信徒であれそうでない人であれ、いずれにとっても刺激的で建設的な学びが生まれてくると思う。『ふしぎなキリスト教』は神学の専門家から見て内容にいろいろ大雑把さがあるのだろうが、そういう対話の起爆剤になるだけでも意義があると、第1部を読んだ時点では思っている。第2部も楽しみ。