逆説と出会うのか、あくまで観察に徹するか

『ふしぎなキリスト教』の第2部「イエス・キリストとは何か」まで読んだ。やはり面白い。信徒でない平凡な日本人が(もちろん著者は非凡だろうが)キリスト教を観察したらこう見える、という部分を、面白くするためにやや戯画化もして、リズムよく描いている。
言及されていることの一つ一つに「いや、それは聖書学ではこうだから」とか「教義学ではこうだから」と上げ足をとるような指摘をしても、あまり意味はないように思う。橋爪氏と大澤氏が語り合うイエスのイメージは、安彦良和の『イエス』にも近いだろうし、むかしの聖書学の「人間イエス」に近い。
結局は、やはり彼らが語る「コミットする」という点に収斂されるのだろう。歴史的にイエスは実在した。ところで、そのイエスに、キリスト教の教会の礼拝のなかでコミットする(出会う/導かれる)のか、このように文学的、社会学的にユニークな書物として、距離を置いて愉しむのか、という。
そこには関根清三らが力説するところの、逆説との出会いも含まれるかもしれない。まさに大澤氏が191−193頁で質問しているとおり。出会い/導きの体験がないと、十字架で救われる?余計な御世話だ。そうなるだろうし、なんでわざわざ十字架なんてまどろこしいことを?ともなるだろう。
遠回りだが、『納棺夫日記』は、日本人の「出会い」の参考になる。青木新門は、遺体の洗浄や納棺の仕事をするなかで、蛆虫にたかられた腐乱死体や、いわゆる「みじめな」自殺死体などと出会い続ける。しかし、あるときからそれらを、むしろ美しいと思うようになる。蛆虫が輝いて見えるようになる。
傍観者が「かわいそう」と思う死体が、尊厳ある死の現象と捉えなおされる過程が見事に描かれる。これが逆説の出会いだろう。味わわなければ、出会わず体験しなければ、蛆虫にたかられた死体は気持ち悪いだけだっただろうし、そこに超越的な美を見出すなどあり得ない。
橋爪氏と大澤氏は、とりあえずそういう出会いは留保して、汚いものは汚いじゃないかという「ふだんの」感覚に忠実に、常識的にキリスト教を語っているのだ。それはそれで、逆説にどっぷり浸ってしまった身、もはや外から信仰を眺め直すことなどできない我が身としては、実に参考になるというものだ。